中学校で僕が学んだ孤独と障がい|逃げることは悪じゃない

自分は小学校1年生から支援級に入っていたが、療育手帳を持ち始めたのは中学2年生の頃だった。

きっかけは、中学卒業後に養護学校へ進学するためだった。

小学生の頃からすでに勉強に音を上げていたが、中学生になるとさらにできなくなった。

定期テストでは0〜30点台がほとんどで、50点以上を取ったことはなかった。

とはいえ、公立中学だったので、周りにも低い点数の子はたくさんいた。

だから自分だけが目立っていたわけではなかったし、周りからはよくこう言われた。

「ゆとむはどこに障害なんてあるんだ?頭悪いのは俺も一緒だぞ?」

その言葉は、当時の僕には嬉しくもあった。

でも今となってはとても残酷な言葉に思える。

なぜなら、障害による「できなさ」が、周囲からは単なる怠けや能力不足に見えていたからだ。

理解されないもどかしさと、自分でも直し方が分からない苦しさがあった。

特に辛かったのは人間関係だ。

小学生の頃から友達作りにつまずき、中学ではほとんど友達ができなかった。

放課後に誰かと遊んだり、休日に家を行き来するようなことはなかった。

(※小学生時代については、記事「謝っても人が離れていった|障害のある僕の小学校の記憶」を参照してほしい)

そして、今も胸に深く突き刺さっているトラウマがある。

体育の授業で、先生からこう言われた。

「2人1組になってキャッチボールをしてください」

僕はたくさんのクラスメイトに声をかけた。

でも、誰も一緒にやってくれなかった。

10分間、僕は一人でボールを持って立ち尽くしていた。

この孤独な時間が、何度も何度も繰り返された。

僕はとにかく、いろんなことが苦手だった。

持久走大会では女子より遅かったし、合唱コンクールではひどい音痴で怒られた。

「音を合わせろよ!」

「歌えよ!」

後ろから蹴られたり、肩を殴られたこともある。

ストレスでシャンプー中の抜け毛がすごく増えた。

毎日学校に行くのが本当に嫌だった。

でも、親にも先生にも相談できなかった。

思春期特有の恥ずかしさが、僕をさらに孤立させていた。

そんな中、毎晩、妄想していた。

「転校生が来て、俺の味方をしてくれたらいいのに」

枕を濡らしながら何度も、何度も。

中学校の思い出は、正直、良いものがほとんどない。

もしかしたら楽しいこともあったのかもしれない。

でも、嫌な記憶があまりにも多すぎて、思い出すことができない。

当時の僕は、間違っていた。

今でこそ社会で働けるようになったけれど、

あのまま無理を続けていたら壊れていたかもしれない。

抜け毛があんなに増えたことは、体が限界だった証拠だ。

正直、自分の障害を何度も呪った。

普通に歌えない、普通に運動できない、普通に友達を作れない。

それは今でも、完全には克服できていない。

今、この記事を読んでいるあなたへ。

もし、同じように悩んでいたり、辛さを感じていたりするなら、

声を大にして言いたい。

辛かったら、逃げていい。

当時の僕は、「学校を休まずに行き続けたら、何かが変わる」と思っていた。

でも、特別なものなんて何も得られなかった。

ここまで読んでくれて、本当にありがとう。

人それぞれ、悩みや苦しみは違う。

あなたには、あなたの人生がある。

どうか、自分を大切にしてほしい。

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